思えば私はこの連載をきっと一度として結論に向かって収束するような書き方をしたことはなく、ある考えなり概念なりを初速を与えられる力とか弾みのようなものとして使って、そこからどこまで遠くに行けるか、到達点はもちろんのこと方角すら書き手である私の与り知るところではない、というようなひたすら飛距離を伸ばすことだけを問題にするような書き方をしてきた[......] 

保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』新潮社)

[......]この断章群は、三人称の専制的語りに支配された他者(=読者)の介入を許さない〈閉じた〉夢記述でしかなくなってしまう。[......]どれほど荒唐無稽であろうと、どれほどもっともらしかろうと、ともかくは遠過法で語りはじめられた〈夢のリアリティ〉を受け入れることからしか、『夢のなかの夢』には加われないということだ。[......]ここで夢見る人々が遺した(あるいは遺したかもしれない)テクストを僕らは知っている。それらのテクストにこれらの夢を反射させることができれば、ぼくらのなかにあるかれらのテクストはあらたな光を返してくるかもしれない。そう思ってこの〈閉ざされた〉夢の物語を読むのでないかぎり、このテクストは気の利いた瀟洒な夢物語としか映らないだろう。

(和田忠彦「夢の痕跡、夢のほんとう――解説に代えて」,アントニオ・タブッキ,和田忠彦訳『夢のなかの夢』岩波文庫